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ねんりんピック新聞 2023 in 愛媛 インタビュー ラグビーフットボール 

ねんりんピック新聞 2023 in 愛媛 インタビュー ラグビーフットボール 

夏になるとグラウンドに出て走り出したくなる秋田市 出雲敏雄さん(87)

 出雲敏雄さんが初めてねんりんピックのラグビーに出場したのは、1991年の第3回岩手大会で、ラグビーが種目になったのもこの時が初だった。現在は出場選手で県最高齢の87歳の出雲さんも当時は65歳になったばかりで、初戦は滋賀県に勝ち、第2戦で佐賀県を退けた。足が速く、独走でトライを2度、3度と重ねた。その時の写真が大会報告書の表紙を飾った。

 これまでねんりんピック出場は10回ほどになると言う。昨年の神奈川大会で対戦した滋賀県の選手に聞くと、亡くなった人もあり、出雲さんは月日を感じた。
 「私はバックス。身長163㎝、若い頃は166㎝あったのですが、体が小さく手で払われるので、相手の膝や足首めがけて、捨て身のタックルを試みます。スクラムハーフもやりました。スクラムにボールを入れてバックスにボールを渡すのが役割です。
スタンドオフとともにチームの司令塔です」

 秋田県立能代工業高校建築科に入学したのは、ラグビー部創
設3年目。「さっちゅう先生」の愛称で呼ばれる秋田工業高校の(故)佐藤忠男先生の指導を受けた3年生が能代工業ラグビー部をリードしていた。能代には対戦するチームもなく練習不足で、1回戦で負けた。
 高校時代は、グラウンドは雨が降れば田んぼになり、タックルで頭から突っ込むと、どろだらけになった。どろが眼に入り前が見えなくなったのを、スパイクでできた泥水で洗った。夏は日照りで水も飲まずだったが、いまも夏になると無性にグラウンドに出て走り出したくなる。

 卒業して関東で木造の設計の仕事に就いた。結婚して子どもがラグビースクールに入るようになるまで、ラグビーから遠ざかっていた。小学校4年生では遅すぎると入部を断られたが、ラグビーの指導員になることを条件に認められ、出雲さんもラグビーに戻った。34、5歳になっていた。子どもらの指導が終わると指導員どうしで紅白に分かれて試合を行った。東京タワーの工事が行われていた頃だ。指導員は12年間ほど続けた。

 社会人になった時、秋田の母を呼んで、箱根と熱海に旅行した。4きょうだい末っ子の出雲さんは父が家出し顔を知らない。国鉄勤めをしていた長男が父親代わりだった。箱根まで客を運んだ大型タクシーに帰り道だから安くすると乗ったのも忘れられない。「敏にはいい旅行をさせてくれた」と母は喜んだ。

 カナダの不惑チーム、エブタイトが来日し、神奈川でも試合をやることが決まった。1990年9月、神奈川不惑ラグビークラブ結成。出雲さんは初代メンバーになった。このゲームで2メートルの大男の膝にタックルして倒したことが忘れられない。
 秋田に帰ることになり、別れの時、メンバーからサインを寄せ書きしたラグビーボールをもらった(写真)。

 いまもランニングを続け、大股歩きで8000歩が日課。日曜は練習日に充てる。不惑では80代になると紫のパンツをはく。昨年、東京・府中のグラウンドに、全国から80歳以上のラガーマンが50人を超えて集った。90代のゴールドパンツも元気におられた。「いつまでも元気でいたい」との思いで1日1日充実した生活を送る。

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