包括ケアのかたち「富山型デイ」(182)

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包括ケアのかたち「富山型デイ」(182)

 富山市東南部の旧大山町で2期、町会議員だった野入美津恵さん(71歳)が、だれでも受け入れる富山型デイを始めて20年が過ぎた。

 「このゆびとーまれ」のボランティアだった野入さんは町長選に出馬して、わが町にも富山型デイを作りたいと公約に掲げたが、落選。2003年、これを機に自ら非営利活動法人を立ち上げ、築百年の民家を借り、1800万円借金して改修しスタートを切った。

 議員の時の給料は月15万円。夫も定職がなく、家の預貯金はなかった。「貯金がない、と言う人でもいくらかはお金があるものだが、ほんとにない人も珍しい」と行員に言われながら、信用金庫や国民金融公庫、友人から民家の改修費と事業費をなんとか借りることができた。

 最下位当選で始まった議員時代は、女性はただ一人。町役場の6つの便所はすべて男女共用だった。町長や市長にも手紙を書いて、女性専用トイレの設置を要請し、訴えてから7年して、役場に女性専用トイレが1つできた。

 富山型デイは、年齢や障がいを問わず、サービスは一体で提供し、高齢者は介護保険制度で対応し、障がい者は障害者総合支援法で受け入れる。入口は2つ必要など縦割り行政の壁を越えながら、徐々に受け入れられてきた。富山型デイといっても、それぞれによって運営方法は異なる。デイ「おらとこ」では、子どもは自費で預かる。07年からデイの近くで小規模多機能型居宅介護「おらとこ東」をスタート、その後、サテライト「おらとこ若竹」も運営。こちらは夫の豊光さん(72歳)が管理者。家の事業を支えようと資格を取得した。富山型デイに小多機が加わり、より多様な対応ができるようになった。

 スタート時から、地域の子どもたちがデイにやってきた。12年には駄菓子屋&くつろぎ空間「おらとことんとん」も始め、小、中、高、大学生まで、多い時には一度に40人ほども来ていたという。「受験勉強の先生役をしていたこともある」と野入代表。20年経って、子どもたちは成長し、家庭をもつ人もいる。駄菓子屋だけは残している。

 しかし、残念なことに、町から子どもたちの声があまり聞かれなくなった。代わりに、職員の子どもたちがお母さんと出勤してきて、「ただでご飯を食べて」一緒に帰っていくという。やってくる子どもたちは、中心が地域の子どもから職員の子どもたちに移った。13年には、就労継続支援B型「おらとことんとん夢工房」を開設し、創作活動を通じて障がい者支援をめざしたが、19年、職員の確保が困難になり6年で閉鎖した。

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 野入さんは赤いTシャツとGパンがお決まり。日々の激戦ぶりを物語るように、赤いTシャツは別府地獄をめぐった時に買った「毎日が地獄です」のネーム入り。自分で、裏に「毎日がごく楽です」を刷り加えた。ほしい人があると、洗濯してプレゼント。20枚買ったのにいまでは4、5枚を残すだけになった。「私たちの事業がたいへんだと言う人もあるが、認知も進んできたので、言うほどでもないかも」と、謙遜する。

 コロナ禍では、小規模多機能で感染者が出た。小多機は2週間、デイは1週間休んだ。「デイ職員が小多機の利用者宅への訪問を応援し支えてくれた」と、豊光さん。

 職員数は40人。年間の収入は、デイ(共生型)、小多機2事業所、駄菓子屋、合わせて約1億2000万円。理事長の給与は月20万円(年間240万円)、20年間不変という。

 これまで7つの民家をただでもらった。ただし改築費はかかる。いまも借金が残っている。「地域のみんなの助けになればそれでいい」の思いでがんばっている。利用者家族から「生涯現役」を刷られたTシャツをもらったが、いまだ着ていない。

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「富山型デイ」とは

 地域共生社会の先駆的な取り組みである「富山型デイ」。富山県厚生企画課作成の「とやまの地域共生―富山型デイ20年のあゆみとこれから」には、15市町村95事業所が紹介されている。1995年7月に、惣万佳代子さんら日赤の看護師さんがつくった民間のデイサービス「このゆびとーまれ」に始まる。「家に帰りたい」という退院許可がでた患者の叫びを受け止め、対象者を限定せず、高齢者から障がい者、こどもまで誰もの居場所となるデイサービスを展開してきた。

 「富山型の理念」(17年4月現在)には、だれも排除しないで受け入れ共に暮らせるまちづくりをめざして、小規模、主に在宅、住宅街に拠点、トップが現場で働く、障がい者の働く場、会員同士はよきライバルなどを提唱する。

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