最期まで妻を思い続けたTさん

最期まで妻を思い続けたTさん

最期まで妻を思い続けたTさん

 正月明けのこと、数年前に認知症だった奥さんを看取った小規模多機能事業所「ひつじ雲」の利用者T氏が、住み慣れた自宅で、親族やひつじ雲の職員が見守る中、穏やかな最期を迎えた。

 T氏夫妻との出会いは、ひつじ雲を開設した3年後から始めた、地域の食事会だった。食事会は、管理栄養士や歯科衛生士、看護師と、調理補助のボランティアの方たちの協力を得て、コロナ禍で中断するまで14年間継続してきた。

 食事会に参加し始めた当時から、T氏の奥さんには認知症の症状があった。T氏はすでに奥さんの介護を始めていたことになる。しかし、食事が終わったあとに奥さんが「多摩川」という唄を歌ってくれた姿は今も忘れられない。

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 その後T氏から「ひつじ雲さんに、妻の介護を手伝ってほしい」と言われ訪問するようになった。ちょうど、地域包括ケアシステムの考え方が拡がり始めていた時で、川崎市の有志でシンポジウムを開いたことがあった。その際、T氏にも奥さんの介護について語ってもらった。

 その時の話の内容がとても印象深く、夫婦の絆の強さを感じた。奥さんが「あんたのことは私が最期まで看るからね」と常々語っていたという。その奥さんが認知症と診断され、子供のいないT氏は「当時、僕は誰の手も借りずに彼女を介護すると覚悟した」と話していた。

 T氏から電話をもらい、ひつじ雲の管理者と計画作成者が訪問した。夜中に家に帰ると言って、雨でも外に出てしまい、深夜に2人で街中を歩くことや、生活のリズムが安定せず、朝9~10時になっても起きてもらえず、「何で起きないといけないの」と叱られることがたびたびだという。90歳近い夫にこれ以上疲れがたまらないよう、自宅への訪問から始め、ゆっくりと時間をかけて近隣の散歩や買い物に出かけるようにした。そして、ひつじ雲の通いを始めるようになった。ふらつきや転倒で活動量が低下し、認知症の進行も顕著になっていた。

 その後ひつじ雲を利用して5年半が過ぎ、肺炎と診断され自宅療養となって1カ月が経ったころ、夫らが見守る中、自宅で静かに息を引き取った。

 奥さんを看取った後、T氏の役割は奥さんの仏壇を守り、地域の行事の手伝いなどをすることだった。奥さんが亡くなった後に、若い大学院生を連れてT氏宅を訪問し、在宅介護や自身の人生観などを伝えてもらっていたが、91歳を超えた頃から体調が不安定になり、小多機を利用するようになった。

 いくつかの病気と向き合い、定期的な検査入院もしていた。親族や在宅医からは「そろそろ施設入所がいいのでは」と勧められていたが、本人の「ひつじ雲さんの助けを借りて、妻の仏壇を守りたい」という思いは揺らぐことはなかった。

 昨年からは転倒を多く繰り返すため、ベッドそばにポータブルトイレを設置し、住宅改修を行い、訪問看護や往診の点滴加療を始めた。室内移動は車いすで行っていた。小多機の看護師は医療関係者との情報交換を密にして、職員たちと情報共有した。

 今年の正月、親族とワインを飲んで楽しんだと聞いて間もなく、朝から嘔吐の気配や身の置き場がない様子があり、ひつじ雲の看護職員が付き添い、在宅医と連絡を取り合った。

 点滴を行うと、落ち着いて会話ができるようになったが、再び呼吸に変化が表れた。医師の「数時間ですね」の言葉通り、1時間後に皆が見守る中、穏やかな最期を迎えたのだった。T氏は最期まで奥さんがいる仏壇を守り切り、最愛の人と二人でいることの価値を示し、教えてくれたように思う。

(シルバー産業新聞2022年2月10日号)

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